2011/03/21
稽古を続けるだけ

毎日考えた。何故演劇なのか、何故芝居なのか、何故やり続けるのか。被災地を報道する海外のニュース映像に目を背けた。テレビの被災された方に向けられる マイクの意味を問うた。そして、被災地に向かった友に賞賛の想いを抱き、ブログに掲載された鮮やかな写真に嫌悪を感じた。そして、自問し続けた。あたしに できること、あたしが死にもの狂いになれること、捨て身になれることは何か?芝居仲間と声を荒らげたメールをやりとりし、声を抑えて説き、そして、また考 え続けた。今、想っている。あたしにできることは芝居しかない、と。できることをする。それぞれがそれぞれの持ち場でできることをすることこそ、歯車の狂 わない日常の復活ではないのか。
だから、あたしは稽古場に行く。これからはずっと同じ日常的光景の中に稽古場がある。稽古は日常訓練なのだから。
そこに公演があるから稽古があるのではなく、あたしたちは役者を続けるのだから、稽古をするのだ。しなければならないことなのだ。
明白だ。
開かれた稽古場参加者5名、見学2名。今回は死生観を問う課題に熱情込めて取り組んでみた。感情の交換を丁寧に進めた。感情をほどき、そしてこの課題へと移行した。今回は初参加の女優と数年ぶりに参加の女優を交えて。
男優2名はここにきて馬力を上げた。この大震災と向き合う課題に対してのMケルの取り組みは実に真摯で、流れた涙は劇的であった。深い哀しみ。
課題は、希望とか望みとか。人間の感情が紆余曲折していく。感情が湧き上がる。
それぞれにもう一度向き合って、想いだしてほしい。あなたの想像力はどこまで膨らんだのか?亡くなってしまった愛する人は、どんな姿をして、どんな顔をしていたのか?死に対する漠然としたイメージなんてもう、捨てる。
「さぐりあい」「いがみあい」のシーン創り。
女優チーム、男優チーム。
「相関図」
人の感情を丁寧に、人の命を丁寧に扱っていくために。
身体表現。音と身体の融合。
今回の稽古は駄目出しをしながら、進めてみた。全体的なダメではなく、個々にダメを出して繰り返す。もう一度書くのはやめる。
稽古を本気で想いだしてみてほしい。
これから芝居を切り捨てていかない覚悟ができるならば、それぞれに稽古を続けるしかない。
もしかしたら、年単位で芝居の公演ができない世の中が続くかもしれない。それでもやるためにやるのではなく、自己を充たすためにやるのではなく、芝居に不可欠な要素、観客を想像力の観客席に座らせて、稽古を続けるだけ。
そうしなければ、もう芝居は打てない。芝居しかない、芝居をやり続けると決めたのだから、半端なものは淘汰していかなければ。
もう一度、向き合って、戦いを始めることにした。

今はやることが目的になりかねない。
すり替えてはならない。
芝居にしかできないこと、だから、芝居を続けるのだ。