2011/05/30
螺旋階段はいつか最上階に辿り着く。

先週も開かれた稽古場から始まった。参加者4名、見学1名。初参加の芸人Uみさんがいたので、できるだけ丁寧なアドバイスをしながら稽古を進めた。
想像力がすべての源である。その想像が日常を離れられないことがよろしくない、そう繰り返している。想えば、若い頃の友人とのコラボのポエティックリー ディングの頃、師匠の日常訓練の稽古場の頃、そして、自分の芝居を創るようになり、はじめた開かれた稽古場の今。想像力を鍛えることがすべての源だとずっ と思い続けている。
己の経験を豊かにすること、日常の視野を変えること、本を貪り読むこと、映画をミクルウこと、恋愛を重ねること、いい性愛を重ねること、面白い人と深くつ きあうこと、よい絵を観ること、知らない料理を食べること、知らない風景を観ること、想像力を鍛えるためには究極生き様、かもしれない。
面白い人になること、素敵な人になること、ではないか。
M本、Mケル、R音は魅力的な人たちだからこそ、役者として、それが体現できるために不足を補っていくことだと想う。
順調な稽古場のモチベーションの高揚に期待した今回、ノッキングを起こしてばかりで、またぐるんぐるん螺旋階段を降りていった。
錯覚に終わらない確かな感触は掴めない。
感情を動かし、身体表現し、シーンを創っていく、または共演者との共存。奇妙な部屋におけるR音、M本は非常に面白かったが、日常に戻るという基本的なこ とがまだできない。もう100回近く繰り返してきたこの課題で、綺麗に日常に戻ったのは以前参加したNさんの一度だけだった。リアリズムの中における表現 主義、様式でなければならないということ。
しかも、この奇妙な部屋は4名で創っているシーンなのだが、Mケル、が酷かった。発見や驚きや恐怖がなぜできない!
これからはもっと壊していきたい。かっとびたい。そのためには、リアリズムがなければ先へ進めないということなのだ。
ひまわり幼稚園。かならず面白くなると信じて続けている。空回りしてうまくいかない。幼稚園児の発想、つまり、これも観察と想像ではないか。
己の記憶なんてつまらんものだ。そんなちっぽけな記憶を呼び戻すよりも想像して世界を広げた方がいいに決まっている。

ピンター研究会は産みの苦しみだ。苦しいけれど、点が一つずつ一つずつ繋がってくる。それは結果にはまだ遠いようだが、これを重ねることが愉しむための遠 回りでも必要な稽古だとつくづく想った。ピンターにかぎらず、表現は雰囲気では成り立たない。のようなものは大嫌いだし、ウソは観客には見える。

芝居を嘗めてかかると大やけどをするのだ。きっと。
積み重ねて、螺旋階段を確実に昇る者だけが、本物になれる。
できていないものは、できていない。それは己が一番わかる。その己と正面から向き合うことなのだ。