2011/06/13
アタシガイノチヲカケルモノ

女友達は言う。「芝居に命なんてかけてどうすんのよ」と。それでもあたしは心血注ぎ、無心になれ、命をかけることができるのだから、これはもう狂気の沙汰と笑い飛ばしてもらってもいい。
月曜日、開かれた稽古場。あたしは芝居を始めたばかりの頃は恋を優先したり、欲望に溺れたりもして、随分脇道にもそれた。芝居と向き合えば向き合うほど、 蛇に睨まれたように身動きできなくなっていき、いつのまにか夢中で足掻いていた、芝居の海の中で。稽古をこれまでずっと続けている。役者稼業を続けたけれ ば、声を出し、稽古を続けるのはあたしにとって必然だから、稽古ありきなのだ。
この稽古場も謂わば、あたしのこの揺るぎない想いの延長線上にたゆたう。だから、芝居へのあたしの想いがここには蔓延しているのだ。それを押しつけるつもりはない。しみ込んでいけばいい。
今回の開かれた稽古場では作品創りに挑んだ。いや、挑もうと想った。少なくとも1本、稽古で作品を創ることができた。
「闘争」
出演 Hで、M本
ダメを出し、演出をつけ、動きをつけ、様式的な劇的表現を試みた。これは決して試演ではなく、本気で演れよと心でつぶやいた。極限の集中力を求めた。繰り返し、繰り返し、仕上げの声をかけ、音を入れて表現するふたりの役者。
まだ目指したい先の話をして、完成できた。空気が張り詰めて、あたしの求める空間=稽古場がそこに在った。確かに。
続いて、「抉る」 ここからも作品創りと想っていた。しかし、遅れてきた参加者がいて、稽古の流れを変えざるを得なくなる。動きを決めても、すぐに崩れていく。それでも、手を入れては何度か繰り返した。だめだ。
続いて、争い。また淀む。あたしは誰かの上手、へたのせいにしようと想わないが、とにかくあたしの求める稽古にならない。これはあたしには地獄だ。とにかく、何をしにくるのか、稽古とは等と説くのはめんどくさい。やる気の無いものは来るな、出ていってくれだ。
切れる。切れたところで想いが伝わるわけではないし、と諦めながら、ブツブツと叫んでいた。
演技指導、自己啓発。あたし、何をやってるんだと想った。
「懇願」
「懇願」の作品創りを。人間の表情だけをみせたいと想った課題。当然、うまくなんかいかなかった。
「身体表現による感情風景」
号泣を追い込んでみたかった。かろうじてそれぞれの役者にダメを出す。あたしの求める号泣を話す。
心が泣き叫んでも、心が歓喜に溢れても、決して人は叫ばないのだ。
そう、この夜のあたしのようにね。
切って、斬って、切り刻んで、いい表現を、劇的を追い求めていくんだ。
以上。