2011/11/28
手足をもがれるような。「微睡むとき」

月曜日、開かれた稽古場。天才、玉井英きさんが映画の仲間を連れてきた。挨拶を交わして、眼が合った瞬間、「あれ?」と驚いた。次の瞬間、彼は「お久しぶ りです」と名前を名乗った。再会。出逢った時、彼は舞台の上、しかも初舞台の役者だった。眼がいい、とその時出演していた友人に言った。それっきり。彼は あたしの賛辞を覚えていると言った。あの眼はどうなったのだろうか?
思いがけない役者の参加で。参加者5名。見学1名。作品「微睡むとき」を創る前に感情を動かす課題をいくつか。
死と向き合う。連続して7人の死に直面していく。感情を抑えるために歩行を入れる。抑えても溢れてくる感情をここまでの参加4名、丁寧に追うことができた。
役者それぞれの感情の襞はそれぞれに違い、その襞が丁寧な結果として見えた時、それらは観客の心を抉る。
闘争。激しくぶつかり合う。まあまあ。
Iべくんは、感情を天井まで抜くことができたら、きっといい。そう感じたので、伝えた。M本、Hでは感情を咀嚼することを覚えたので、丁寧な感情の襞が見えるようになった。
Y子は感情が溢れる時とまったく動かない時がある。迷いも見える。いつでも感情が蠢いているようになりたい。
遅れてきたH子を加えて、作品「微睡むとき」
作、演出 森島朋美 即興音 DubMasterX
出演 松本渉・玉井英棋・ 礒部 泰宏・ようこ・H子
手 足 を もがれるような
と書かれた1枚の白い紙を使う。
10CCの音にのり、俳優登場。スタイリッシュなポージング。ただ、それぞれは口々に この紙の言葉を発声する。
フレーズに意味はない。音としての記号であってよい。
時折、他人の顔をしていた5人の俳優は一丸となり、ポーズをする。
それは観客席に問いかける、あるいは挑む姿のように見えたい。
このオープニングからはじまり、
「極限の状態を繰り返していく」作品である。
死、愛、住処、あるいは居場所、記憶、言葉の喪失と続き、
最後は身体の手足がもがれていく。
人々はもがき苦しむ。
しかし、やがて、身体から痛みと苦しみが喪失していく。
もしかしたら、それは己の死を意味するのかもしれない。
死に至った人々は立ち上がる。
立ち上がった人々には手も足も
痛みも、記憶もない。
その姿は、人々が微睡んでしまった瞬間となり、
暗転。

台本割愛。構成台本のみ。
実感していくこと。それでしか成立していかない。
記憶を喪失するということ、には腑に落ちる何かが足りなかった感触。
文字、しかし、言葉の意味を持ち始めた一枚の紙は、
果たして何に見えるのだろうか?
散らばり、歪む、5枚の白い紙。散らばる言葉たち。
これからは、何を感じて、何を持ち帰るか。そんなことを役者たちに求めたい。
そして、それは観客への問いかけとなるはずだ。
しかし、毎週台本1本、40分と決めて書き進めることはあたしの鍛錬ともなる。続けよう。
磯辺くんはいい役者になりそうだし、松本、玉井は宝だな。大事に引っぱっていきたい。いいんだよね〜
Y子は他でも習っている様子なので、今は言わないでおくことがあるけれど、彼女の本領の身体表現が活きた表現になるようにと、そこに着目していく。
H子は、まず実感を実感するまで、五月蠅く言い続けるつもり。いざ、覚悟。笑。
特筆すべきはDubさん、理屈では即興をわかりながらも、作品にここまで触発され、積極的にいけたのは初めてかもしれない。才能のある人なので、こうなれば怖い者なしだよね。毎回、この調子になると嬉しいな。

作品後、へとへとの役者たちにさらに課題。
煽りあい、
恒例相関図。
相関図の出来がよかった。H子がさらに温かい愛になれることを望む。
M本の毒がやっと愛情の中で活きた。よかったよ。
さらに日常訓練、作品挑戦は続くよ、どこまでも。こわいものなし、我が人生となろうではないか。同志たちよ。