2012/04/09
空間を共有する快感

今週は気分のよい1週間だった気がしている。あたしは桜があまり好きではない。6年間閉じこめられた学校の校章が桜だったせいなのか?麻薬の幻覚のようなものだ、桜。
散りゆく桜吹雪が見たい。散りゆく桜吹雪の中で名台詞を叫んでみたい。
そんな桜が葉桜になっていく様は、あたしの背中を急かしてくる。
開かれた稽古場から始まった。もうずっと新規の募集をかけていない。あたしはここを純度の高い日常訓練の場所にしたいので、腰を据えて、今や死語の根性の ある場所にしたいからだ。募集をかけると入れ替わり立ち替わりに参加者がやってくる。そもそも参加は自由にして、誰もこない時は自分の稽古時間にすること を決めてはじめたので、闇雲に人数を増やすことに疑問を感じた。誰からの紹介という方だけは今、受け入れている。
今週も2名の役者と音のDとじっくり作品創りをしようと想った。最近感情の動きをじっと見つめている。感情を表現することの本質を見つめている。感情はた とえば一瞬動くもの、それでいいと思っている。感情を抑えるということとは違う。感情は常に動いている、生きている人間なら。そこを求めたい。
「さざ波の如く、ここ。」作・演出 森島 音 花、DUB 出演 Mケル・Hで
出逢い、感情が動いていく連綿とした作品である。ダメだしをして創ったので、詳細は割愛する。劇中の曲選びと身体表現がよかった。
感情は見せつけるものではないのだ。動く、その瞬間が観たい。観客だって、きっとそうだ。Hでが少しずつそのあたりに気づき、ダメだし烽火にもがいている。できないからまたやらせてほしいと言ってきた。いいことだ。
顔が紅潮するような、それが欲しいのだな。非常に細かい感情が続く作品なので、嘘がすぐにわかる。作りものがすぐわかる。丁寧に丁寧に、ほんとを求めていきたい。
音も感情が動いた瞬間を捉えて入れてほしい、とお願いしてはじめた。音の反応は的確な箇所にきこえてきたが、いまひとつ腑に落ちていかなかった。稽古後 に、なぜかDが稽古参加を放棄して、Hなが音をやっていたことを知り、切れた。音も、繊細に出してほしい。そのためのいい課題だったと思うのに。
瞬間の高揚とか、瞬間のキモチの変化とか、できない、できない。
今回の山田ジャパンの芝居について、座長とメールで話した。役の感情が見たかった。一瞬でいいから、それが見えたらもっといいのに、と感想を伝えた。うちでコツコツと訓練を続けてきた松本渉だけがそれが出来ていた。素敵。さらに精進していけばいいね。
続いて、「笑い」笑いを20連発。リズミカルに。まあまあ。
最後は無対象相関図。無対象のテクニックを少々、お、し、え、てみた。ただただ繰り返していても身につかない「技術」がある。そこは教えていこうと思ったから。
次回からは活きてくるかな。
そして、今週のピンター研究会は、続けてきてよかったな、と思えた稽古だったのだ。
芝居仲間のNちゃんが来た。言葉にすると安くなりそうだが、空間を共有する快感のある時間だったのだ。稽古とはかくあるべきではないのか、とそう想った。いや、芝居とはそうあるべきだと再認識した。
この研究会はピンターを研究しながら、それをどう演っていくかという主旨で参加している。ただ、それはこの台詞をどう言うか、ではない、とずっとずっと ひっかかってきていた。そこにいて、空間を共有することから発せられる言葉を目指したい。そこから生まれるものを大事にしていきたい、と。
反応していく、のではなく、共存することから自然と生まれてくるものでいいはずだ。
想ってきたこと、感じてきた違和感がすっと腑に落ち、すっと確信できたいい稽古だった。もっともっと、そんな稽古がしたいと想うし、そんな芝居がしたい。
ピンターさんもそれを受け取る観客も、言葉が発せられて、そこから生まれる空間をきっと求めている。そう想う。
何が欲しくて、何がしたくて、何が創りたくて、芝居をやるの?と己に問いかけ続け、やっぱりそこ、と今、想う。
精進、精進。