2015/04/6
開かれた稽古場から帰宅した。家が近づいたら雨。雨が降る日が多かった。余震の続く中も稽古はやった。これまでここにきた人たちをそれぞれ想い出す。名前を失念している方も多いけれど、稽古場の姿は想い出せる。4月。残り4回。感慨深い。今回は参加2名、見学1名。
若手の参加が増えた、と想っていたけれど、考えてみればいつでも年齢層は若手からロートルまでいたわけで、やっぱり変わってきたのは「食いつき」か。何が何でもとか「ハングリー精神」をあたしはずっと求めていたい。さて、稽古は、これまで探り続けてきている「狂う」という役者としての表現。やはり、これも心を動かした先にあると考えてきたし、そうだと想う。果たして狂った経験のない者が心を動かして「狂う」ということだ。以前は心に障害のある参加者も何人もいたけれど、彼らが「狂う」演技ができるかと言えばそうでもなく、「僕は病気なのになぜできないのでしょう?」なんてあたしに質問してきたりもした。あたし自身も探り続けてきていて、今回は1時間かけて心を動かす「発狂する試み」の課題に挑んでみた。最初は心がふわふわし、狂っている「ような」動きを続ける。しかし、この1時間の間に二人の役者たちは飽和状態になり、最後は決められた動きの中で発狂に近づいた身体と声と表情をみせた。これが狂うという表現かと言えばそうとは言えない結果ではあるが、心が飽和していく体感は叶った。今度はこの先にある「信じられる表現」としての「狂う」を求めていきたい。これは1時間という時間のかかる試みではあるが、繰り返すことも肝心なので、終了までに機を得てまたやってみようと想う。
どうぞ挑みにきてね。何でもよい、何かが出来た時の喜びこそ、役者修行の醍醐味ではないだろうか。中途半端で終わらせないでとことんやってみることなのだ。
ダイキは才能を感じる。もっともっと繰り返して実力をつけてほしい。なおみは集中して取り組むこと、まずはそこだね。
後半は作品創り。暗転による展開の多い作品を撰んでみた。場面変わりだけではなく、人物の入れ替わり、時間軸の変化の今の「実力」がはっきりわかる作品だった。二人には今回の段階でのアドバイスを少ない残り時間の中で少しだけ丁寧に伝えた。
帰りの車の中で最後にお願い出しをした。「首を吊ったお母さんをみて狂ってほしい。その結果がサンドバッグを叩くようにお母さんの遺体をタタキ、号泣する」これが奇を衒った行為でも暴力でもない哀しいシーンでありたいのだ。演劇における奇を衒った演技も演出も好きではない。
奇を衒う=わざと普通と違っていることをして人の注意を引こうとする。
以上。★作品より身体表現部分動画公開する。