2009/01/26
感情から分かれて起こる感情を追いかけてみるためのソナタ


1本、満足のいく公演を終えた。翌日、『イリノイのリンカン』の稽古に参加する。チケットの分配が指定席のため、労を要するし、皆さんの平等を考えての配券は気を使うのだ。朝から早起きして、チケットを配券する。M日新聞の記者さんと「老人と海」の記事についての問い合わせでやりとりする。書いては貰いたいけれど、新聞社の記者さんとの上下関係ありありの会話は疲弊する。だから、よかったのか、悪かったのかを書いてくださればいいのだけれど、と想うわけで。稽古、本読みを聴く。まだこれからなので、人物像は文字を超えていない感じの印象。
さらに、開かれた稽古場へ向かう。車で同乗した衣裳さんとザクリと衣裳進行の打ち合わせをしながら、衣裳さんと大きなスーツケースを送り届ける。
参加者11名、見学1名。演劇初体験の参加者も交えての稽古となる。
しかし、課題はさらに積み重ねる。感情、声、身体の自由を獲得しにいく。稽古をする。そして、かならず今日は何を演り、どう迷い、どう感じたかを稽古のあとに想い起こす時間を作ってほしい、だから、こうして稽古日記を書く。歩く。舞台の上を自由自在に歩く。指定された動きの中で、歩く。舞台の上でまず出来て欲しい歩きのための課題から始める。舞台の奥から歩きはじめ、舞台ツラで方向を変える。つまり舞台上の方向転換と規則性の中で、役者として歩く。初参加のMとは、まず歩けていない。普通に歩く、それを舞台の上で叶えていきたい。Mき、Mな、Kがさん、Kちさんはまず役者としての意識がまったく感じられない。町中をブラブラ歩くのではなく、舞台の上を歩くのだ。アクティングエリアでの言動はすべて観客とともに存在するものであるべきだ。役者には誰かがしてくれない。自身の意識の持ち方を変えることだ。Kさわくんは実に役者然としてきた。Mもと、Nちゃんは存在感があり、魅力的だ。Yきは常に分析している、執着し、没頭しないと肝は掴めない。さらに、歩き、佇む。さらに、強い怒りを持って歩く、そして、その怒りの感情を納めていく。感情をはっきりもち、それがそう、と見え、その感情を抑えて消していくまで。まず、感情がみえない。何度言っても、それ風のことでしかない。ごまかせない。心を怒りでザワザワと揺り動かすしかない。全員もっと強いものがほしい。感情に伴う、身体の硬直、息の乱れ、声、表情、それはすべて先に感情ありきである。Mきの表面的な感情は愉快ではない。何を伝えたくて、表現者を目指しているのか?芝居は自己顕示ではない。Mもとの怒りがやっと泣きではないものに見えてきた。いいと想う。続いて、ある人物をそれぞれに想定して、ある人物として歩く、佇む、さらにシーンを創る。役作りへの課題として。まず、人物が見えてこない、会話や行動で、人物をわからせるには?自分ではない人物になること。女優陣、まったく人物が見えない。Kさわくんは、自分からもっと離れて、違う人物に挑戦してみてはどうか?変身してみること、なりきること。これは、しぐさ、癖から創ってほしいと想う。人物同士のシーン作りは玉砕。なぜなら、人物になれていないから。成り立たず。感情を連続させて、感情が変化していく、それが人間の感情であるということを体得してほしいと考えて、嘆き、諦めに繋げていく。諦めたひとたちの吹きだまりまで。何が起こり、そして、諦めていくのか?細部まで想像していくこと。イメージが希薄である。希薄なイメージはただのそれ風のものにしか、嘘にしか見えない。自身の経験の中の感情は、その時になんらかの終結をさせた感情の化石なのではないかとあたしは、経験上、想っている。感情を想い出すのではなく、その感情を新たに想像することで、生むこと、そこを言いたい。常に、新しい状況、はじめての状況の中で、その感情を生むこと、それが感情の訓練である。
諦めの佇み。諦めた人々がそこに立つ。さらにシーンを創ってみる。シーンを創るものは、そこに生まれる空気感である。言葉ではない。諦めた人同士の視線が絡んだとき、その瞬間、何を共有し、何を拒絶していくのか、あたしが求めているもの、観たいものは、そこだ。Mと、Kちさん、Mき、Mな、Kがさん、見事に女優ばかりだが、諦めるという表現をしているにすぎないのだ。あきらめという気持ちをもったとき、人はどんな顔をするかをなぞるのことではない。心が諦めなければ、だめだ。心の声をそれぞれに発してみる。言葉を考えるのではなく、口から言葉が零れるようでありたいのだ。言葉がきこえてくるのは、Nさん、Mもと、Kさわくんのみ。さらに、シーンを創る。Mき、Kちさん、Mと、Kがさん、何も見えてこない、会話になっていかない。Kさわくん、Nさんがとてもいい。切り取る。混在させてもだめなときは、排斥したくなる。そして、純粋に創りたい。Kさわくん、Nさんの諦めの出逢いから、再度、シーンをドライブさせる試み。ふたりの間に流れる嘆き、諦め、間合い、とてもいい。Mもとが、加わる。是までの形骸化されたものまねを超えて、とてもいい役作りだ。Nさんはずっと役が通っていて、想像力が続いていて、さらにいい。Kさわくんが失速する。何とか取り戻そうと食い付いていくが、空回りしていく。Mきが加わるが、会話にならず、反応できず。いつまでも自分だけで空回りし、しゃべるので、邪魔だ。難しいことではない、その空気を感じ、そこにいる人の気配を感じ、そして、反応すればいいだけのこと。U杉くん、ふらふらと現れるが、欠けているのは、Kさわくん、Nさんとの関係性だと想った。Kちさんが加わる。なかなかいい加わりかただったが、先が続かない。関係を巧く創ったのだから、あとはU杉とともに関係を膨らませていけばよかった。Mな、Kがさん、Mとも何となくシーンに加わってくるが、それぞれがひとりよがりである。シーンに人物が加われば、空気が変わる。それだけでいいのだ。Yきが種を持ち込んだのだが、あまりに実感が乏しく、劇画のように空疎なものになり始めたので、止める。金を撒く、ところから、再度。金への反応が希薄過ぎる。止める、再度、アドバイスし、実感してみることを課題にする。お金への反応、すべての登場人物がしなければ成り立たないのだ。Nさん、U杉くんよかった。Mもと、さらにシーンを動かす。Nさん、Mもと、いい。女優陣が他力本願すぎて、どうしようもない、どこかで関わっていく、関わりを見つけていく、恐怖、執着、その場で起こる感情に対して雑すぎる。そんなことでは何も劇的なものはうまれっこない。何故、芝居を演る?何を観客に伝える?Nさんの裏切り、彼の心は繊細に動き続けていて、実にいいものをみていた。その結果の劇的変化。回りの反応がそのよいものを殺してしまった。さらに死んだはずのYきが起き上がる。世にも奇妙な物語になってしまい、ガッカリして手を打つ。観客を巻き込むことがシャットダウンされたので。観客に答えを押しつけなくていいのだ。観客には観客の想像力がある。
次の課題。深い哀しみ。深い哀しみを持って歩く。哀しみから泣きまで。どうしても泣けない。絞り出さなくても、泣けるようになりたい。全員物足りない。指定した場所まで深い哀しみを持ってあるき、佇む。電話のベル。恋人、夫、あるいは妻の自死の報せを訊く。反応。死体が安置されている場所まで走る。逢う。反応まで。
だらだらと意味のない言葉が続く、気に入らない。最後まで続けてみるが、反応が見えたのは、Nさん、Mもと、Kさわくんのみ、シーン作りのコツをアドバイスして、再度。反応がはっきりしない。今日は、ここから、連続した課題を、想像力による実感の課題を創っていたので、続けてみた。最愛の人の死、そこに時間軸を重ねた課題だ。最愛の人の死から3日後、3ヶ月後、3年後、15年後。稽古後の会食でも少しみなで話をしたが、時間というものを想像することをこの一年あたしは考えてきた。芝居は一瞬にして、時間軸が動き、時空が変わる。そのための想像と実感の訓練をやっと創ったので、トライ。
まず、アクシデントへの反応、それの時間的な変化、あるいは変化しないもの。深まる物、さらに抉られる物、変質していく心、そんなことを追ってみたい。ほとんどの参加者の思考が、想像力が途中で止まってしまった。しかし、さらに押していく。15年後に同じ経験をもった者たちのシーン創りまで。これはあたしは会話として成立していかなくてもいいと想って、イメージしていた。人は語りたくない過去を果たして、語るのか?というKEYがあたしの中にあった。Mもとが話しはじめた。まあ、ありかな?作り物過ぎるな、物語をわざわざ興すことだけが劇的ではないとあたしは感じた。しかしだ、大きく反応しなくてもいいが、回りの人々が風景のようで、書き割りのようで、あまりにつまらない。Yきが発する言葉も意味不明だ。役者個人の心情描写は劇的ではないと感じた。実感が足りない。言葉なんて、いらない。きっとそう。
この課題は、ある種の役作りのための課題でもあるのだな。ただ、Nちゃんの発した「理由がわからないんですよ」の言葉は心からのつぶやきで、効いた。
特筆すべきは、これだけだった。それぞれが、感情も経験も風化させてしまったら、劇的なものも風化してしまうのだ。時間も想像する。
声と身体を一体として、意識し、自由にするための課題。声の増殖から連続しての身体表現。息、身体、声、そこからの佇み。音、IN.身体表現へ移行。
今回の音は非常によかった。身体と音がイメージを産んだ。混沌として、切なくて、もの悲しい音、あたしには役者たちが夢の中の散歩者あるいはオルゴールの上の人形のように見えた。あたし自身から急に笑い声が飛び出してきた。指示をして、動きを整理したくなった。いい成果が見えた。
あたしの中で。(笑
愛情表現からの相関図。Kさわくん、Kちさんから。愛情表現、Kさわくん、とても堂々とし、心が動き。よくなった。
そこからの相関図スタート。Kちさんは初心者だが、心に素直でいい。焦り、ごまかし、言い訳、さまざまな感情の襞が見えた。これは演劇の表現ではないが、あたしの目指している糸口としてはとても好感が持てた。Yき、根本に愛情をと何十回も言っても、何かが違う。彼にとっての愛情って、なに?と本気で想った。人の心を掴まえることの地獄を知るべきかな?Mもと、愛情故の罵詈雑言となれたら、もっといい。今回のでは下品だ。U杉くんは温かく、愛情深い役者だ。相関図の反応や執着をみると想う。さらには表現を考えていくかな?そろそろ。Kさわくん、今日はこれまでのこの課題でのあやふやさに答えを用意した感じがする。一番大事な心の変化、心の動きが薄まってしまったね。何かを掴むと何かが逃げる。それが芝居の修行かもしれないね。Mき、まったく愛情が見えない。哀しすぎる。Mなちゃん、シーンを転がすことが目的ではない。心を動かすことだ。身体表現から遅れて参加のSらさん、誰より強い嫉妬や愛情が見えた。シーンが進むうちに失速したのが惜しい。
途中で、反応の指示、誰かを選択、気持ちを選択することを指示する。なかなか劇的なシーン、Kさわくんの土下座に相手を立ち去らせる強いものがもっとあれば、尚、いい。U杉くんの愛情か、執着かがシーンを変えた。よかった。
最後に破壊。そして、佇みまで。Nさん、見事。
以上。
さらに。
感情を動かすこと、感情の変化を敏感に感じ、表現できるようになるのだ。
瞬間的な感情が感情表現ではないという訓練へ移行していく予定である。
人間を表現するのが、役者の役目であるから。