2009/12/29
今年も開かれた稽古場納めた

昨日は今年最後の稽古納めをした。参加者2名。見学1名。頭から最後まで参加して、己も鍛錬した。
それぞれへのダメだしはし、アドバイスもしたので、稽古内容だけ列記しておく。
歩くからの自由なシーン作り 3本。
歩き、「強い感情を創り」そこからのシーン作り 3本
3本目のシーンの流れから途中で、あたしは退場し、指定したシーン作り。
ここで、感情を動かすということをかみ砕いてアドバイスする。
題して「2時30分 噴水にて」=M本が素敵すぎる。泣けた。これはいい。
5本繰り返したが、どれもこれも心が蠢いた。
去ったことを強く後悔した、ひとりの登場人物としてのあたし。
「死に向かう」シーン作り。
煽り、懇願。歩きから30連発。これだけ繰り返すとよく動くこと、心。面白かったな。
台詞。ピンター 「夜」
少しずつ方向付けをしてみた。うむ、やりたいな。
来年もコツコツと日常訓練を繰り返す。参加者を増やすことよりも己の稽古を重ねたい年なのだ。

世阿弥の言葉 肝に銘ず。
稽古は強かれ、情識はなかれ
★「情識」(じょうしき)とは、傲慢とか慢心といった意味。
「稽古も舞台も、厳しい態度でつとめ、決して傲慢になってはいけない。」という意味。世阿弥は、後生に残した著作の中で、繰り返しこのことばを使っている。

「芸能の魅力は、肉体的な若さにあり、一時のもの」という、それまでの社会通念を覆したのが、世阿弥の思想。「芸能とは人生をかけて完成するものだ」という考え。

「老骨に残りし花」は、観阿弥の能を見てのことば。老いて頂上を極めても、それは決して到達点ではなく、常に謙虚な気持ちで、さらに上を目指して稽古することが必要だと。

年々去来の花を忘るべからず
★「年々に去り・来る花の原理」とは、幼年時代の初々しさ、一人前を志した頃の技術、熟練した時代の満足感など一段ずつ上ってきた道で自然と身についた技法を全て持つことで、これを忘れてはならない、という意。

ある時は、美少年、ある時は壮年の芸というように、多彩な表現を示しながら己の劇を演ずるべきだ。入門時から現在の老成期まで芸人は、その一生を自分の中に貯え、芸として表現しなくてはならない。日々の精進が大切。

初心忘るべからず
★世阿弥にとっての「初心」とは、新しい事態に直面した時の対処方法、すなわち、試練を乗り越えていく考え方を意味している。つまり、「初心を忘れるな」とは、人生の試練の時に、どうやってその試練を乗り越えていったのか、という経験を忘れるなということ。

世阿弥は、風姿花伝を始めとして、度々「初心」について述べているが、晩年60歳を過ぎた頃に書かれた『花鏡』の中で、まとまった考えを述べている。その 中で、世阿弥は「第一に『ぜひ初心忘るべからず』、第二に『時々の初心忘るべからず』。第三に『老後の初心忘るべからず』」の、3つの「初心」について 語っている。

住する所なきを、まず花と知るべし
★「住するところなき」とは、「そこに留まり続けることなく」という意味です。停滞することなく、変化することこそが芸術の中心である。

よき劫の住して、悪き劫になる所を用心すべし
★世間の変化の中で、その変化と関わりあっていくのが人間であり、芸術であると考えた。その変化の中で、変化することを恐れず、「住しない」精神を世阿弥は求めた。

来年も開かれた稽古場へ参加、お待ちしています。
日常訓練の習慣は、あなたをかならず本物にします。